祭りへの憧憬ー『ディストラクションベイビーズ』

映画館を出てから、しばらく興奮していた。こんな感覚は何年ぶりだったか、思い出せない。

ずっと心の奥底にある田舎出身田舎在住であるという卑屈なわだかまりが、彼らの疼きとともに燻り、昇華され火を吹きそうだった。


柳楽優弥演じる泰良は、モンスターだ。なぜなら、その行動に理由がないからだ。理由なく殴り、殴られるために不特定のターゲットに向かっていく。

口から血を流して、その口から歯が地面に零れ落ちようが、何を語る事もなくただ純粋に人を殴る。

そんな彼の純粋さに誘発され、それぞれが内に隠し持っていた欲望を爆発させていく若者たちがいる。

それが菅田将暉演じる高校生・裕也であり、小松菜奈演じるキャバクラ嬢・那奈である。

裕也は、とことんどうしょうもない小物だ。相手が自分より弱い立場の存在だと認識するとちょっかいを出し、殴り罵倒する。友人が目の前で襲われていても、相手が自分より強いと感じると真っ先に逃げる。「なにか面白い、でっかいことがしたい」と大口を叩き、泰良のとなりで、泰良が狙わない、女性やいかにも弱そうな男性に襲い掛かり一時の快楽を貪る。

何の意志も持たない、ただ目の前にいる人間を殴ればいいだけのモンスター・泰良は、「自分の快楽のため」という意志を持った裕也とともに行動するようになる。それによって暴力は、純粋さを失い、意味をもった凶悪な「暴力ゲーム」へと変貌していく。

那奈は、偶然彼らが乗り込んだ車に居合わせたというだけで、彼らのゲームに巻き込まれる存在だが、後半に差し掛かるにつれ、彼女もまた内なる凶暴性を爆発させていくことになる。自分より下だと見下していた裕也のほうがかえって怯え、喰われるほどに。

そしてもう1人。泰良のたった1人の身内、村上虹郎演じる将太である。この兄弟は極度なまでの純粋さという意味で共通点を持つ。兄はそのベクトルを暴力に向け、弟は信じることに向けるのだ。


この映画の軸には、「祭り」がある。松山の伝統的な喧嘩祭りとして有名な「秋祭り」だ。

映画の登場人物、特に将太と泰良が生まれ育った港町の人々は終始祭りを気にしている。序盤、将太は掲示板に貼られた祭りの告知ポスターをじっと見つめている。また、彼の友人は神輿に乗ることができる18歳になることを心待ちにしている。友人が言う「喧嘩神輿の最中に人を殺しても罪には問われない」という台詞は、その祭りに含まれた合法的な喧嘩、暴力という一面を示唆している。

そして終盤、喧嘩神輿の様子と泰良が人を殴る様子が並行して示される。将太は、憧れるような表情をして、喧嘩神輿を眺めている。それは、将太の泰良への憧憬、暴力への憧憬ともとれるのだ。

泰良と裕也の行動を、小さな情報でわかったつもりになって声高に批判するSNSの声が、画面いっぱいに埋め尽くされる。その声は、観客席にいる私たち自身だ。そして、私たちは泰良が人を殴り倒しているのを遠巻きに見て終われば去っていく野次馬であり、喧嘩神輿の観客であるということもこの映画は示唆している。


これは、少年たちの理由なき暴力を描いた物語であり、田舎の「祭り」というものを描いた物語である。そして彼らと同じ欲望は、きっと私たちの心の奥底にも眠っている。


終盤の喧嘩神輿が、それを告げているのである。




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