「骨抜きレモ」と『トットてれび』ー『俳優亀岡拓次』

『俳優亀岡拓次』の一場面。

亀岡(安田顕)が、思いいれのあるスペイン映画のあらすじを電話越しに語る。どこかで学校のチャイムが鳴っている。いつしかそれは、異国の映画の中で鳴っている教会のチャイムの音と重なり、彼は走り始める。

その時彼は、日本の路地にいながら、異国の映画の世界を生きているのだ。手にはピストル。カメラは、水溜りを通して反転した男の姿を映す。

架空の映画『骨抜きレモ』のラストシーン。現実と映画の間を男は彷徨う。


現在放送中のNHKドラマ『トットてれび』にも共通するところがある(両作とも大友良英が音楽を担当している)。満島ひかり演じるトットが、テレビ創成期のNHK放送局で奮闘する話で、毎回本当に面白い。特に初回は衝撃的だった。まさに、彼女はお茶の間とブラウン管の中の間で彷徨っていたのだ。

ラジオドラマの現場に初めて参加した彼女は失敗して追い出され、落胆したまま、暗い放送局の通路を歩く。すると、「今度はテレビだよ、入って!」というディレクター(濱田岳)の声がして、きらきらと輝くテレビドラマの現場に放り込まれる。最後は、街頭テレビの向こう側の世界が突然解放され、それまでテレビを見ていた大衆やトットたちを巻き込んでミュージカル風のステージへと変貌する。


トットと亀岡は、まるで光と影のように対極の存在ではある。片や、日本全国知らない人はいない伝説の大スターへの階段を登っていくテレビタレントと、片や、吹けば飛ぶようなペラペラの紙に震える手で書かれたサインのような、しがない脇役俳優。でも、彼らは同じ場所にいる。その場所は、私たちの憧れの場所であり、幻想の世界だ。

『トットてれび』で描かれる創世期のテレビ局には、森繁久彌が女たちをはべらせて通路を闊歩し、威勢のいいあんちゃんだった渥美清や永六輔がいて、締め切りに追われる向田邦子が時折テレビを見やっている。そんな今はもうない、かつてあったかもしれない夢のような光景。『俳優 亀岡拓次』の架空のスペイン映画「骨抜きレモ」も、そんな郷愁を感じさせるのである。


映画が光と影でできた産物なのだとしたら、亀岡や、その愛すべき仲間たちは影の側を生きている。監督からは一目置かれる存在で、「君のおかげだ、君と一緒にやれてよかった」という労いのみを糧に、男は肩をすぼめて次の現場へと向かう。

でも私はそれが羨ましい。影こそが映画なのだから。彼は私たち観客の憧れの世界に生きている。現実と幻想の境目がわからなくなるぐらいに。

「ちびくろサンボ」で虎がぐるぐる回っていたらいつのまにかバターになってしまったように、亀岡は気付いたら映画自身になっているのではないか。

そんな心地がしてくる。

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