もらとりあむタマ子

「この国の空」の里子が「そろそろ」と何度も呟くように、タマ子もまた「そろそろ」と言い続けている。彼女は、「その時がきたら動く」と言い、その時は「少なくとも今ではない!」と言う。いわば「その時」を待つ話だ。

「待つ」ことは受身的であるが能動的でもある。不確実で宙ぶらりんな「その時」のために自堕落な実家暮らしの一方で、タマ子はダイエットを始め、オーディションを受けるための写真撮影をし、ひそかに動いている。といっても、実際に実行に移すわけでもないのだが。

「もらとりあむ」の時間が、就職して身を立てたり、結婚して新しい家族を作ったりすることで「何者かになる」ことを猶予されている時間のことをいうのだとしたら、誰しもある時間だ。私も就職して自立してはいるが、まだ「その時」を待っているし、待つからこそ能動的であり続けようとしている。多くの人が、まだ見ぬ「その時」を待っているのではないか。「その時」を待たなくなったら、人は受身でしかなくなってしまう。

これは「待つ」映画だ。自堕落のようでいてすごく、動こうとしている。

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