この国の空

この映画は、恋愛というより恋愛に至るまでの少女の衝動を描いている。

里子は戦争や死への恐怖よりも、理性ではどうしようもない衝動に突き動かされているだけだ。

最後に茨木のり子の詩「私が一番きれいだったとき」が朗読されることで、終戦の年に同じ19歳だった茨木の心情が里子と重ねられる。「敗戦の時19歳だった茨木さんが30歳過ぎて書いた」(「映画芸術452」p29)詩は、戦後の焼け跡をのし歩く二階堂ふみの姿が目に浮かぶほど里子的であり、この映画のためにあったのではないかと思うほどだった。一方、この詩によって、戦争で周りに若い男がいなかったため不倫に走らざるを得なかった年頃の娘の悲劇として捉えられる一面もある。

しかし、彼女にとって戦争とはなんだったのか。

戦争が終われば市毛の妻子が帰ってくる。帰ってくれば今までのようにはいかないだろう。妻子が帰ってくるまでに里子を抱いておこうとする市毛に対し、妻子が帰ってこようと、始まったばかりの市毛との関係を続けようという意志を持って誘いを断る里子という終盤のシークェンスからは、ただ性の衝動に支配されていた少女が、理性を持って男と向き合っているという面で大きな変化を見てとれる。それは、「私の戦争がこれから始まるのだ」という最後の独白に繋がる。

市毛が戦争の終わりを告げている最中、里子はその言葉がどうでもいいように市毛の世話を焼く。市毛や、里子以外の登場人物にとって、その後の8月15日が戦争の終わりと戦後の始まりという意味を持っていたとしても、里子にとっては市毛との日常が軸にあり、戦争の終わりはその背景に過ぎない。

里子はそういう意味で私たちとなんら変わりのない存在であるということが、この映画の大きな意味であると思う。戦時中を描いた映画は、死をクライマックスとするような、悲劇を主体として描いていることが多い。だからこそ、伝聞でしか死の話がない、それでいて子どもという生の気配もない場所で、迫りくる死の危険と隣り合わせで生きている人々の日常は、完全な非日常の世界だと思っていた戦時中の日本を、現代と地続きに見せていた。

今は戦後なのか、戦前なのか。そんな考えが頭をよぎり、怖くなった。

映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

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