マミー

観客は、映画が始まることによって一切の視界を遮られる。唯一の光源がスクリーンだとすると、観客の視界はスクリーンのみに限られると言ってもいい。

その視界の幅が、画角の変化によって変えられる。その画角の変化は、主人公スティーヴの心情の変化によってもたらされるものだ。

それによって観客の心情は自然とスティーヴの心情に移入することになる。感情によって左右する画角は、観客を時に不安にさせる。

彼の手によって狭いスクリーンがこじ開けられた瞬間、観客の心の中にも漂っていた閉塞感もまた解放される。しかし、通常通りの画角に戻った後、観客は不吉な予感に襲われる。彼らの解放感に満ち溢れたつかの間の幸せは、決して永くは続かないだろうことを予知するからだ。

最後に画角が変わるのは、解放感によるものではない。息子を引き離すことで希望を見出そうとした母親・ダイアンの見込みのない希望の表出。また、スティーヴが最後に自由に向かって逃亡する時、画角が狭いままなのは、行き着く先にも彼には閉塞感じかないからだろう。

スティーヴが抱える問題は、父親不在と過度な母親依存。時に恋人同士に見えるほど寄りそう2人に、カイラという1人の女性が加わる。カイラは、母性という意味でダイアンと共通し、孤独と閉塞感という意味でスティーヴと共通する。父親の死によって根本的な空洞を抱えているスティーヴと、子どもの死によって同じく空洞を抱えているカイラは共通している。カイラの吃音と、家族にまで心を閉ざし、その理由を自らの言葉を使っては決して説明しないカイラの沈黙は、その空洞を表している。

それぞれの孤独を寄せ合い、つかのまの快楽に浸る日々は長くは続かない。息子はいずれ母親から離れなければならない。ダイアンが自らスティーヴを引き離すのは、世界の全てが母親によって成り立っているスティーヴの精神的離乳を図ったと言えるが、スティーヴにとってそれは、世界がなくなることに等しい。

映画は、時に親を殺す。それは1970年代の映画によく観られる傾向だった。現在、グザヴィエ・ドランという私達の世代を引っ張る旗手は、親殺しではなく、子殺しを描いた。そういう意味でも、新しい映画である気がした。

映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

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