『この世界の片隅に』

私はエスカレーターというものがニガテでして。特に下りが。

 大縄跳びと同じ要領で、足を一歩踏み入れるタイミングに戸惑ってしまう。だから基本的に人の流れに逆らって、階段を使う。

 車を持っていないから、どこに行くのも自転車や電車。 どこか人の列からはみださずにはいられない人間なのだけど、この毎日はわりと面白い気が、最近している。 

まだ三年しか住んでいない日田の隅っこ、ちょっと変わった面白い人々。美味しいお酒に食べ物。演歌と黄土色の薬湯の温泉。 私はけっこう知っていたりするのだ。

 という、自慢。 

 なんて、ちょっと不器用アピールしてみたのは「すずさん」に感化されたからだろう。

映画を見終わった後、余計エスカレーターの前で立ち往生してしまった。


 すずさんは、やたらめったら不器用だ。いや、絵も描けるし料理もできるのだから手先は器用なのだが、とにかくぼーっとしている。道に迷って人攫いにあって、「ありゃー」と言ってなんとかなるような不思議な子。とにかくどじっ子で、人の足手まといになってばっかりだけど、なぜかみんなを笑顔にする能力を持っている。

彼女の面白いところは、人攫いに捕まって逃げたのも、おばあちゃんの家の屋根裏から女の子が出てきて食べ残しの西瓜を食べていなくなったのを見つけたのも、「夢だったのかな」「座敷童だったのだろう」でのんびり済ませてしまうことだ。その伏線が回収される時、彼女のそののんびりした優しさにじわりと心が温かくなる。

 あまりに残酷な場面は、彼女の心のフィルターがそれを正視することを避けるように閉ざされる。時にそれは彼女の心の絵筆によって色彩豊かに、夢の場面のように描かれ、時に彼女の記憶を遡ることによって、今はもうない失われたものの存在が際立つ。 

流されるように生きて流されるようにお嫁に行って、そこで生きている彼女は、時代に流されるように戦争に巻き込まれていく。流されるように、それでもそこで懸命に楽しいことを見つけて生きている彼女のささやかな幸せがどうしてこんなに奪われ続けないといけないのか。たんぽぽの綿毛のように吹き飛ばされてしまいそうな彼女が意外にも逞しく、静かに怒り、静かに明日を見据えていた。それが救いだった。 

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