『淵に立つ』

冒頭のメトロノームは、壊れかけの家族の歪みを整えるものなのか、それとも爆発する寸前の時限爆弾が時を数える無機質な音なのか。  

一見平凡な家族は、一人の男・矢坂(浅野忠信)の出現によって狂っていく。彼の存在によって元々潜んでいた彼らの本性が露呈していくとでもいったほうがいいのか。 

夫(古舘寛治)には矢坂との過去に大きな秘密があり、妻(筒井真理子)は矢坂に惹かれて女としての顔を見せはじめる。事件が起こったとき、彼らは娘の存在を二人の罪だと言うが、父親に会ったことがない矢坂の息子(太賀)もまた、矢坂と映画には登場しないその妻の罪なのだろう。

 女たちは、皆、自分の頬を何度も叩く。矢坂がするのと同じように。

 シェイクスピアの『マクベス』で、マクベス夫人が犯した罪に怯え、見えない血を何度も洗い流そうとするように、妻は自分にこびりついた汚れを、事件の時に矢坂が着ていた真っ赤な服の色を洗い流そうするように、丁寧に、丁寧に自分の手を洗い続ける。

 矢坂という男はやっかいだ。自らの罪を悔い、礼儀正しく、常に白い服できちんと生活している彼は一見正しい。それでいて、人の本性を揺さぶりおびき寄せる何かを持っている。 親の罪を負わされた二人の子と、新たな罪を重ねてしまう二人の親。彼らは、次は何に自分たちの罪を着させるのだろう。 


深田監督の以前の作品『歓待』は、古舘が矢坂的な侵入者を演じていた。インコの代わりにやってきた明らかに変な感じがする男と、彼が連れ込んだ外国人女性。男は妻の隠していた過去を暴き、女は夫を誘惑する。そのうち彼らは家族を支配していき、最後には大勢の外国人を連れ込んで、盛大なパーティーが始まってしまうのだが、それを不気味であると感じてしまうのは、観客である私の潜在的な差別意識がおびき寄せられるからだろう。小さなコミュニティの中の常識で生きているに過ぎない観客の本性。

『歓待』の家族は、以前よりも少しだけ開放的になり、今までとさほど変わらない日常を生きていく。 『歓待』は登場人物というより、観客の本性を露呈させる映画だ。ちょっと居心地が悪くなる。 『淵に立つ』は一人の男の出現によって、越えてはいけない一線を越えてしまった家族の話だ。もう取り返しがつかない。

では、観客はどうなのか。私たちが彼らのようにならない保証はどこにあるのか。

 気付いたときにはもう、淵を越えてしまった後なのかもしれない。 

映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

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