イーダ

職場で本を並べていると、一冊の本のタイトルに目を奪われた。

「マルグリット・デュラス 生誕100年愛と狂気の作家」(河出書房新社編集部/編)。

デュラス。数年前の今頃、一人映画館で観た映画「インディア・ソング」。正直、未熟な私にはよくわからなかった。わからないけれど未だに忘れられない。あの時間と空間と音楽が音を立てて軋むような感覚、美しい歪みのような感覚。その「美しい歪み」は、いつも私を映画の世界に釘付けにする。

先日観た映画「イーダ」もそうだ。美しいけれどどこか歪んでいるような、そんな映画だった。

敬虔な修道女として決して肌を露出することのなかったイーダが、心惹かれる男の子と会話した後に、鏡の前でそっとベールを取る。露わになる髪。その瞬間たちのぼる官能性。

ドレスを着て煙草を吸って、アルコールを飲み、まるで日常の続きがそこにあるかのようにふらっと死んでいった叔母の残酷な美しさ。

歩きにくいハイヒールを脱ぎ捨て、爪先立ちで彼と踊るイーダのぎこちない、可憐な白い足。

モノクロームの世界では、私達はイーダの美しい赤毛の色を想像することしかできない。叔母が最期に着たドレスの色、マニキュアの色を私達は想像することしかできない。

しかし、だからこそそこに切なさに似た、捉えようもない無限の美しさを感じる。

映画館という暗闇に身を投じる時間は、現実を忘れ、映画の向こうの世界の美しさに没入する。しかし、映画館を出た瞬間、映画では感じることのできない、風が頬にあたる心地よさ、季節の香り、人々の生活のぬくもりを肌で感じる。世界の美しさにハッとする。その時、映画との延長線のようでそうでない、断絶されているようで確かに繋がっている現在を、確かに生きていることを再認識する。

私にとって映画とは、「生きている実感」なのである。そんなことを、思った。

映画雑感ー本屋時々映画とドラマ

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